0章 逃げ馬の思想

「キーストンは走りながら死んだ馬である。それは見事な生一致の瞬間であった。(中略)全力疾走することによってのみ人々に愛され、話し掛けられ、走らなかったときには罵声にさらされた一頭のサラブレッドにとっては、「走ること」は「生きること」だったのであり、その燃焼の最中についに追いつかれて、二万人の見ている前でばったりと倒れたことは、この馬らしい「幸福論」の終焉だったと言うことができるだろう」


 これは寺山修司の『幸福論・裏町人生版』からの引用である。ここに描かれた稀代の逃げ馬キーストンの姿は、俳句、短歌、演劇、映画、競馬エッセイと多彩な創作活動に打ち込みつづけ、47年間の人生を駆け抜けた寺山修司の姿と重なる。彼自身、自らをよく逃げ馬に例えていた。寺山は二十歳でネフロ−ゼを患って生死をさまよい、その病床で処女作品集『空には本』を出版した。寺山とって、創作活動は唯一の社会に認められる術だったのだ。寺山は作品を「創ることによってのみ」人々から愛される存在であり、「創ること」が「生きること」だったのだとも言える。だがそれでも、その生き方はあまりに生き急ぎすぎたように思えてならない。彼は一体何から逃げ続け、何に向かって走り続けたのだろうか。

寺山の創作活動のすべては、常に変革を伴う前衛的なものだったが、その根本にあったものはなんだろうか。寺山編著による名言集『ポケットに名言を』の中に、こんな言葉がある。

「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものはひとつの世界を破壊せねばならぬ」(ヘッセ『デミアン』)

 この言葉は寺山修司の創作の姿勢を象徴しているように思う。彼は常に、母から故郷から既成概念からの脱却、現実原則の破壊と革命を目指しつつ、ついに完結しえなかった。「永遠の前衛」「永遠のアドレッセンス」などと呼ばれるゆえんである。ここにおいて彼の作品は、母と子、家と家出、青森と東京、新宿と恐山、内向と外向、現実と虚構など、二律背反したものを含み、二つに引き裂かれた世界を生み出すことになる。
 
映画『田園に死す』(1974年)は寺山修司の監督した長編映画の第二作である。青森で過ごした少年時代を題材にした自伝的内容の作品であり、恐らく映画史上最大といっていいほどの、個のイメージの喚起力に富む作品である。ここでは個の記憶は解体され、自由に再構築される。そして、「家出」、「母殺し」、「犬憑き」、「蛍火」、「恐山」、「汽車」、「かくれんぼ」など、彼の作品に繰り返し登場するテーマが集約されて描かれている。この映画を主軸としながら、「対立項」をキーワードに、彼の作品に描かれてきたものを検証して行きたいと思う。



長編論文「寺山修司〜引き裂かれた作品世界〜」